陶泉 御所坊について

日本では歴史とは伝承するものだと考えている人は多いと思います。御所坊は日本書紀に登場する有馬温泉で、最も古い歴史を持つ宿です。

時代々の変化の中で常に古いモノと新しいモノを融合させて“御所坊の空間”を提供し、多くの方々に、ご愛顧賜ってまいりました。

 

お越し頂いた多くの有名無名のお客様。そして温泉をはじめとした有馬の自然環境や周囲に暮らす人たちとの関わりが混ざり合って“伝統”や“文化”を生み出し、それが施設に影響を与えて独特の“情緒”や“雰囲気”が生まれてきました。それらが“御所坊の空間”を構成しているのです。

 

これらは一朝一夕では作りだす事がなかなか出来ませんし、他所では味わう事の出来ないものだと思います。

 

御所坊歴史考 

有馬温泉の歴史を調べて行く上で重要な事は、その記述はいつの時代に書かれたか?

多くの記述は「有馬千軒」とうたわれた、江戸時代に書かれたモノが多いのです。

戦国時代が終わり平和な時代が到来し、五街道が整備されて一般の人が旅行に出かける事が出来る時代になりました。有馬温泉の紹介本が多数発行されました。中には想像を膨らませて有馬の歴史を書いた著者もいたかもしれません。その辺を考慮して歴史を考察する事が重要だと考えています。

 

御所坊宿泊台帳

(鎌倉時代~江戸時代) 

御所坊の歴史は鎌倉時代から始まります。1185年平家が壇ノ浦の戦いで敗れ、その3ヶ月後近畿地方は大地震に襲われます。この模様は方丈記で書かれています。有馬温泉もこの頃の群発地震の影響で崩壊していたと考えられます。

 

1191年 吉野の修験僧仁西は平家の落人を連れて地震でつぶれていた有馬温泉を再興し、薬師如来を祭る為に温泉寺を建立しました。その薬師如来の十二神将になぞらえて12軒の宿坊を建てたといわれています。このような記述は江戸中期に見られます。

 

1207年 故大納言平頼盛の後室が湯口屋(後の御所坊)に滞在したとの事です。仁西が有馬に来てすぐお寺や宿坊を建てられないと考えられるので、有馬の再興の当初から御所坊・・・湯口屋があったと推察されます。この頃の記録には●●坊という記述は見られません。(出所:藤原定家「名月記」)

 

1336年 九条家政所の注進状に家領当知行分として「有馬温泉神社 湯口東西屋」の名がでる。(出所:九条家政所注進状)

 

1371年 祇園社(現在の八坂神社)の執行 謙詮が「一ノ御所」に逗留(出所:謙詮「祇園社執行日記」)

1385年三足利三代将軍義満が有馬温泉に入湯の際に掃部(建設大臣みたいな役職)が御所を建設したのが始まりといわれるがそれ以前に謙詮が「一ノ御所」とよんでいる。

1452年 足利義満が入湯の際に寓したことから御所と呼ばれるようになったと記される。御所は当時温泉寺が領していた(出所:相国寺鹿苑院院主 瑞渓周鳳「温泉行記」)

 
1466年 宮中の掃除や儀場の設営などをつかさどる役職名である掃部が、御所坊亭主の名として出て来る(出所:鹿苑院蔭涼軒主 季瓊真蘂「蔭涼軒日録」)

 
1483年 本願寺中興の祖、蓮如上人が御所坊に滞在(出所:山口村誌「有馬道の記」)

 
1594年 秀吉が湯山御殿を建設の際に13石を譲り受け現在地に移転。13石は移転した旅館の中で最大規模であった。(出所:神戸市立太閤の湯殿館収蔵 秀吉朱印付き資料)。掃部による御所坊の運営は秀吉の時代まで続いたと言われる。

 
江戸中期、各種旅行本が発行され有馬温泉は「有馬千軒」と呼ばれるように発展します。この頃から現在も続く「入初式」が行われ、御所坊四朗兵衛が羅漢振舞を行い、当時の献立が残っております。

ハイカラ文化

大正デモクラシーを迎えた日本は、海外文化の良さを取り入れ、独自の日本情緒を育てて参りました。この流れを押し進めた伊藤博文も、御所坊ファンの1人で した。「高談娯心」(高い志で話をすると、お互いたのしい気持ちになる)と書かれた伊藤博文直筆の書を、今もある客室に飾らせて頂いております。日本の自由な文化が花開いた当時、御所坊では、ダンスホールが作られ、お客様方が、ダンスを楽しまれたと伝えられています。そのダンスホールは、御所坊の自由で開 放的なアイデンティティの象徴の1つです。現在は、サロン・ライブラリーとしてお客様にご利用頂いています。

御所坊と芸術

当坊は、芸術を愛する人々に好まれてきました。阪神間のモダンな風俗を小説で表現した谷崎潤一郎も、そうした御所坊ファンの1人でした。「細雪」のヒロインのモデルになった方も有馬では御所坊を好まれて通って頂いたほか、「猫と庄造と二人のをんな」では、御所坊の名前が実名で小説にでてきます。
また、与謝野晶子は「花吹雪 兵衛の坊も御所坊も目におかずして空に渦巻く」と、御所坊前の桜並木の風景を詠んだほか、作家の吉川英治は、聴水御坊の客室で、御所坊の前を流れる滝川のせせらぎを耳に、「水音や二階に高き河鹿かな」と詠んでいます。
そして今もなお、世界で活躍される芸術家や文化人をはじめ、多くの方々に、訪れて頂いています。

有馬温泉全体でお客様をお迎え

御所坊に長期滞在されたあるお客様がおっしゃいました。「有馬の皆に守られている感じがして安心する。」と。それもそのはず、御所坊は、旅館単体だけでなく、有馬全体でお客様に楽しんで頂きたいと思って、町づくりに積極的に関わってきました。

御所坊12代目金井四郎兵衛は、日本初のバス会社「有馬自働車株式会社」を設立し、有馬・三田間のバス運行を行い、有馬に

その様な考え方は有馬の温泉街にも展開しており、カフェドボウや有馬玩具博物館等がその例です。
またいち早く地球環境に対する取り組みをはじめ、リサイクルを推進する上で農業法人を設立し、食の安全性も重要な課題として取り組んでおります。

独自の旅館情緒を追求

「陶泉 御所坊」の近代の大きな転機は、現主人、15代目金井四郎兵衛が、神戸在住の美術作家、「無方庵 綿貫宏介氏」に出会ったことでした。
主人は氏の東洋と西洋の両方の良い所を引き出す芸術的手法と思想に感銘を受け、当坊のアイデンティティと繋がると確信しました。氏に、水墨画の中に佇む当坊の風情を漢詩で吟じていただいたほか、氏の指導の元、1987年には、大規模なリニューアルをしました。その結果、外国文化の良さをうまく取り入れるだけでなく、日本の旅館情緒をさらに深める事ができました。また、かつて御所坊のファンであった谷崎が「陰翳禮讚」の中で書いたように、陰影の中に生まれる伝統的美意識を再び取り入れたことによって、私どもは、当坊を他には無い独自の空間に造り上げて参りました。

足利義満

御所坊の歴史

1191年 吉野の修験僧仁西は平家の落人を連れて有馬温泉を再興し、温泉寺を建立した。鎌倉期創業と伝承。
1207年 故大納言平頼盛の後室が湯口屋(後の御所坊)に滞在。(出所:藤原定家「名月記」)
1336年 九条家政所の注進状に家領当知行分として「有馬温泉神社 湯口東西屋」の名がでる。(出所:九条家政所注進状)
??1385年三足利三代将軍義満が有馬温泉に入湯の際に掃部が御所を建設したのが始まりといわれるがそれ以前に存在していた。
1371年 祇園社(現在の八坂神社)の執行 謙詮が「一ノ御所」に逗留(出所:謙詮「祇園社執行日記」)
1452年 足利義満が入湯の際に寓したことから御所と呼ばれるようになったと記される。御所は当時温泉寺が領していた(出所:相国寺鹿苑院院主 瑞渓周鳳「温泉行記」)
1466年 宮中の掃除や儀場の設営などをつかさどる役職名である掃部が、御所坊亭主の名として出て来る(出所:鹿苑院蔭涼軒主 季瓊真蘂「蔭涼軒日録」)
1483年 本願寺中興の祖蓮如上人が御所坊に滞在(出所:山口村誌「有馬道の記」)
1594年 秀吉が湯山御殿を建設の際に13石を譲り受け現在地に移転。13石は移転した旅館の中で最大規模であった。(出所:神戸市立太閤の湯殿館収蔵 秀吉朱印付き資料)。掃部による御所坊の運営は秀吉の時代まで続いたと言われる。
江戸中期、各種旅行本が発行され有馬温泉は「有馬千軒」と呼ばれるように発展します。この頃から現在も続く「入初式」が行われ、御所坊四朗兵衛が羅漢振舞を行い、当時の献立が残っております。
明治に入り神戸ビーフを広める気かっけとなった初代兵庫県知事の伊藤博文は「高談娯心」(高い志で話をすると、お互いたのしい気持ちになる)直筆の書を残しています。